于山島は竹島か鬱陵島か?古地図の矛盾と領有権問題の深層を解く
日韓両国の間で長年にわたり議論が続く領土問題において、歴史的論争の結節点として頻繁に浮上するのが「于山島(うざんとう / ウサンド)」という古の島名です。韓国側は、512年の新羅による于山国服属以来、自国が一貫して竹島(韓国名:独島)を認知・実効支配してきた決定的な証拠としてこの于山島を位置づけています。しかし、現存する古文書や古地図を丹念に突き合わせると、そこには見過ごせない地理的矛盾と記述の不整合が次々と浮き彫りになります。
古文献に現れる于山島とは、果たして現代の竹島を指しているのか、それとも鬱陵島そのもの、あるいはそのすぐ隣に浮かぶ小島・竹嶼(ちくしょ)を指しているのか。デジタルアーカイブ化が進んだ2026年現在の歴史地理学および外交史料の知見をもとに、古地図が語る真実と領有権主張の背景にある構造を客観的に検証します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:古文献上の「于山島」は単一の島ではなく、時代や文脈により「鬱陵島そのもの」「鬱陵島近傍の竹嶼」「架空の島」へと変化しており、現在の竹島を特定した記録とは認められない。
- 要点2:朝鮮王朝を代表する官撰地図『八道総図』(1530年)では、于山島が鬱陵島の「西側(朝鮮半島側)」に鬱陵島と同規模で描かれており、南東87キロに位置する竹島とは位置も規模も完全に矛盾している。
- 要点3:韓国側の「512年来の固有領土」という主張は、古代国家「于山国(=鬱陵島)」の存在を近代の竹島へ無理に結びつけた解釈であり、史料批判の観点からは重大な論理の飛躍が存在する。
【于山島とは何か】『三国史記』から読み解く起源と鬱陵島との関係性
「于山島とはどのような島か」を解き明かす上で、避けて通れないのが古代国家「于山国(うざんこく)」の存在です。朝鮮半島に現存する最古の正史『三国史記』(1145年編纂)の「新羅本紀・智証麻立干13年(512年)」条には、以下のような有名な一節が残されています。
「十三年夏六月、于山国帰服す……于山国は溟州の正東の海島に在り、あるいは欝陵島と名づく。地方百里」
この記述が明確に示している通り、古代において「于山」とは海上に浮かぶ島国、すなわち「鬱陵島(ウルルンド)」そのものの別称でした。木造の獅子を用いて島民を威圧服従させた新羅の将軍・異斯夫(イサブ)の逸話とともに記されたこの領土は、周囲百里(当時の尺度)を誇る鬱陵島を指しており、人間が定住できず草木もまばらな岩礁である竹島を指すものではありません。
その後、高麗時代から朝鮮王朝時代(李氏朝鮮)へと下るにつれ、「于山」という名称は島国としての国家名から、徐々に鬱陵島周辺に浮かぶとされる「島」の名称へと変遷を遂げていきます。しかし、官憲が定住を禁じて本土へ住民を引き揚げる「空島(縮島)政策」を数百年間にわたって敷いた結果、現地を直接視察しない中央官僚や儒学者の間では「鬱陵島」と「于山島」が同じ島なのか、あるいは別々の二つの島が存在するのかという認識の混乱が生じることになりました。

古文献に登場する「于山島」は現在の竹島なのか鬱陵島なのか?古地図の矛盾と真相
韓国側が「竹島を古くから認識していた決定的な歴史的根拠」として掲げる筆頭が、1454年に編纂された『世宗実録地理志』の江原道三陟都護府条です。そこには「于山・欝陵の二島、県の正東海中に在り。二島相去ること遠からず、風日清明なれば則ち望見す可し」とあります。
韓国側はこの記述を「鬱陵島から晴れた日に見える島=竹島」の証拠であると解釈します。しかし、同書の末尾には重要な補足として「一説に于山・欝陵は本より一島にして地方百里」とも併記されており、編纂者の間でも二島説と一島同名説が併記されるほど情報が曖昧であったことが確認できます。
この地理的混乱を視覚的に証明しているのが、1530年の官撰地理書『新增東国輿地勝覧』の巻頭に付された著名な古地図『八道総図(はちどうそうず)』です。
『八道総図』を開くと、朝鮮半島の東側海上に「鬱陵島」と「于山島」が描かれています。しかし、その位置関係は驚くべきものです。本来、竹島は鬱陵島から見て「東南方向へ約87.4キロ」離れた太平洋(日本海)の沖合に位置していなければなりません。ところが『八道総図』において、于山島は鬱陵島よりも「西側(朝鮮半島と鬱陵島の間)」に配置されており、しかも鬱陵島とほぼ同じ大きさで堂々と描かれているのです。
当時の朝鮮王朝の知識層は、「鬱陵島のさらに東の沖合に別の島(竹島)がある」ことを認識していたのではなく、「鬱陵島の手前(西側)にもうひとつの于山島という島が存在するのではないか」という曖昧な伝聞と想像に基づいて作図していた事実を、『八道総図』は雄弁に物語っています。地理的に鬱陵島の西側に竹島が存在することはあり得ず、この配置の矛盾こそが「于山島=竹島」説を根底から突き崩す決定的なファクトとなっています。
【比較検証】文献・古地図が指し示す「于山島」の正体と地理的データ
古文書や古地図に記された于山島の描写と、実際の地理的実態(鬱陵島、竹嶼、竹島)を照合すると、その実像が浮き彫りになります。各史料における記述の整合性を客観的なデータとして下表に整理しました。
| 項目・論点 | 古文書・古地図上の「于山島」 | 竹嶼(Jukseo / 鬱陵島近傍) | 竹島(Takeshima / 現在の領有係争地) |
|---|---|---|---|
| 鬱陵島からの距離と方角 | 古地図では主に「西側」、後世の記録では「北東約2km」 | 東約2.2km(至近距離に実在) | 南東約87.4km(遠隔の孤島) |
| 島の規模と周囲の長さ | 『日省録』等で「周回二〜三里許(周囲約1〜1.2km)」 | 南北約700m、東西約300m、周囲約2km弱 | 東西2島と数十の岩礁、周囲約4km(急峻な断崖) |
| 植生・産物の記述 | 「竹(大竹)が自生する」「耕作が可能」 | 竹(竹の子)が群生、台地上で農耕可能 | 火山岩の岩礁で竹は一切自生せず、耕作不能 |
| 鬱陵島からの視認性 | 「晴れた日には樹木や砂浜が歴然と見える」 | 肉眼で樹木や地形の細部まで日常的に視認可能 | 気象条件が極めて良好な高所からのみ影が望める程度 |
| 編集部の歴史的判定 | ― | 18世紀以降の「于山島」描写と完全に合致 | 位置・規模・植生ともに記述と完全に乖離 |
この客観比較が示す通り、朝鮮王朝の実地調査記録が進むにつれて描かれた于山島は、鬱陵島からわずか2キロ余り東に実在する小島「竹嶼(チュクト / ちくしょ)」の物理的特徴と完全に一致します。南東87キロの洋上にそびえ立つ岩礁群である竹島とは、環境も距離感もまったく符号しません。

【韓国側の主張vs日本側の見解】竹島問題をめぐる領有権主張の経緯と歴史的根拠
于山島をめぐる議論は、日韓の領有権主張の根幹を形成する対立構図そのものです。両国の外交方針および史料解釈のアプローチを整理すると、その隔たりは極めて構造的であることが分かります。
韓国側の主張:于山島=独島(竹島)という連続的継承論
韓国政府および関係機関(北東アジア歴史財団など)は、以下のような論理を展開しています。
- 512年の于山国服属以来、朝鮮半島の中央王朝は鬱陵島とその周辺島嶼を自国領土として認識・管理してきた。
- 1770年に編纂された国家主導の百科全書『東国文献備考』には、「輿地考に云う、欝陵・于山は皆于山国の地にして、于山は則ち倭の所謂松島(※当時の日本が呼称した竹島)なり」という記述が存在し、于山島が竹島であることを公認している。
- 17世紀末の「竹島一件(元禄欝陵島一件)」において日本へ渡った安龍福(アン・ヨンボク)の供述により、日本の鳥取藩が鬱陵島だけでなく于山島(独島)からも撤退したと主張する。
日本側の見解:史料の厳密な照合に基づく「于山島≠竹島」論
一方、外務省および日本の歴史学者グループは、一次史料の緻密な考証を通じて以下の反証を挙げています。
- 『東国文献備考』の記述は、私撰書である李奎象の『輿地考』から引用されたものに過ぎず、その根拠を遡ると不法密航者であった安龍福の信憑性に乏しい供述(「于山島=松島」という誇大言動)に依存している。
- 1711年に鬱陵島を綿密に検察(実地調査)した官吏・朴錫昌(パク・ソクチャン)が作成した『鬱陵島図形』では、鬱陵島のすぐ東隣にある小島に「いわゆる于山島、海長竹が自生する」と注記されており、実地調査に基づく于山島は間違いなく竹嶼を指している。
- 正史『日省録』(1807年)の鬱陵島調査記録でも、「北に于山島あり、周回は二、三里許なり」と記されており、周囲1キロ強の竹嶼の規模感と一致する。
- 日本側は江戸時代初期の1618年に幕府公認のもと米子の大谷・村川両家が鬱陵島(当時の日本名:竹島)へ渡海し、その航海の中継地・漁獲地として現在の竹島(当時の日本名:松島)を主権に基づき利用していた。1905年の閣議決定と島根県告示第40号による近代法的な編入措置によって無主地先占の法理を満たしており、朝鮮側が一度も実効支配した事実はない。
【実態検証】歴史研究者・公文書調査で見えた「地図作製上の混乱」の深層
日韓双方の史料がなぜこれほどまでに食い違うのか。現場の古文書調査や歴史地理学会の最新検証が明らかにしたのは、朝鮮王朝における「底本伝承の硬直性」と「海洋調査の不在」という実態でした。
朝鮮王朝は儒教的統治体制のもとで官撰書を重んじましたが、地方官や絵師が新たな地図を描く際、実際に船を出して測量を行うことは極めて稀でした。多くの場合、過去の公認テキストである『八道総図』をそのまま写し取って作図していたのです。
その結果、次のような作図の二系統が生まれることになりました。
- 1711年以前の伝統的地図系統:実地を見ず、『八道総図』を盲目的に模写したため、于山島が鬱陵島の「西側」に大きく描かれ続ける。
- 1711年以降の実見地図系統:朴錫昌による実地検察の結果が反映され、于山島が鬱陵島の「東側(竹嶼の位置)」に、実態に即した小さな島として描かれるようになる。
学術関係者の間では、「1711年を境に、于山島の位置が西から東へと突如“移動”している事実そのものが、于山島が遠方の竹島ではなく、現地の小島(竹嶼)を指していたことの動かぬ証拠である」という見解が定説となっています。遠く87キロも離れた絶海の孤島である竹島を、朝鮮王朝の官吏が恒常的に把握していた形跡は、公文書のどこにも残されていないのが冷徹な実態です。

一般に知られていない盲点とネットの誤解|「于山島=竹島」言説を検証
インターネット上の言論空間やSNSでは、センセーショナルな断片情報によって誤解が拡散しがちです。歴史的ファクトに基づき、代表的な2つの誤認を検証します。
誤解1:「古文書に“于山島”という名前があるのだから、韓国領の証拠になる」
最も典型的な短絡です。歴史学において最も重要なのは「名実の一致」です。名前が存在することと、その名前が現代の特定の地理的空間(竹島)を指していることは全く別の問題です。前述の通り、文献中の于山島は「鬱陵島そのもの」または「竹嶼」を指しており、実質的な対象が竹島でない以上、名前に「于山」の文字があること自体は何ら竹島領有の根拠になりません。
誤解2:「鬱陵島から肉眼で竹島が見えるのだから、昔から領有していたはずだ」
『世宗実録地理志』の「風日清明なれば望見す可し」という一節を根拠に、「晴れれば見えるのだから自国領と認識していた」という言説が頻出します。しかし、鬱陵島から竹島が見えるのは年間でも数十日程度、しかも高度の高い山頂付近から極めて良好な気象条件下に限られた特殊な自然現象(蜃気楼や大気屈折を含む影の視認)です。
一方、同書が述べている「樹木や山根の砂渚(水ぎわの砂浜)が歴々として見える」という光景は、わずか2キロ沖合に浮かぶ竹嶼の描写としては完璧に成立しますが、87キロ先の岩山である竹島の樹木や砂浜(そもそも竹島に砂浜は存在しない)を視認することは光学的に不可能です。見えていた対象が竹嶼であったことは、物理法則からも証明されています。
【プロの結論】領有権論争における「後世の読み替え」と冷静な史料批判の教訓
歴史検証の現場から導き出される本質的な結論は、国家間の領有権争いにおける「アナクロニズム(時代錯誤的な過去の読み替え)」の危険性です。
前近代の東アジア諸国において、海上の島嶼に対する主権意識は現代の国際法が規定する厳格な国境概念とは大きく異なっていました。朝鮮王朝が長らく維持した空島政策は、「島を統治下に置く」ことよりも「海を越えた脱走や外敵との接触を防ぐ」ことを優先した結果であり、積極的な領有意思の行使とは対極にある施策でした。
それにもかかわらず、近現代になって領有権紛争が激化すると、当時の曖昧な伝聞や小島の記録である「于山島」の記述を、自国の都合に合わせて現代の竹島へと無理やり接木(つぎき)する解釈が定着してしまいました。自説に合致するフレーズだけを都合よく切り取り、不都合な古地図の位置矛盾や物理的データを無視する態度は、歴史の真実から目を背けることに他なりません。史料批判とは、見たい願望を見るのではなく、残された事実の文脈をありのままに受け止めることにあると言えます。
【于山島】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:于山島(うざんとう)とは具体的にどの島を指すのですか?
A1:歴史的史料を総合すると、古代においては「鬱陵島そのもの」を指していました。その後、朝鮮王朝時代の伝聞や地図作製上の混乱を経て、18世紀以降の実地検察においては鬱陵島のすぐ東隣(約2.2km)に浮かぶ小島「竹嶼(ちくしょ)」を指すようになりました。現在の竹島(島根県隠岐の島町)を指す客観的な地理的証拠はありません。
Q2:なぜ『八道総図』の于山島は鬱陵島の西側に描かれているのですか?
A2:当時の朝鮮王朝の中央官僚や作図者が現地へ渡航して測量したわけではなく、「鬱陵島の手前に于山島という島がある」という曖昧な伝聞記録をもとに想像で作図したためです。この位置の致命的な矛盾は、朝鮮側が竹島(鬱陵島の東南87km)を正しく認識していなかったことの動かぬ証拠とされています。
Q3:韓国側が「于山島=独島(竹島)」と主張し続ける理由はなぜですか?
A3:韓国側は自国の領有権主張を正当化するため、「512年の于山国服属以来、独島(竹島)を自国の領土として支配してきた」という歴史的正統性の物語を必要としているためです。そのため、古文書に登場する「于山」の文字をすべて現在の独島に結びつける解釈を公式見解として採用し続けています。
まとめ:古地図の矛盾を越えて知るべき歴史的事実と今後の視座
「于山島」をめぐる論争は、単なる地名の当てはめ合いではなく、前近代の地理認識と現代の国際法規が交錯する極めて深い歴史的テーマです。『八道総図』に残された西側の島影、そして『日省録』や朴錫昌の記録が示す竹嶼の特徴は、于山島が竹島とは無関係であった事実を静かに、かつ雄弁に語り続けています。
感情的な主張や偏った切り取り情報に流されることなく、現存する古文書と古地図の客観的データを突き合わせる冷静な視念こそが、領土問題の真実を見極める上での確かな羅針盤となります。 (出典: 于 山島(Yahoo!ニュース))